「そこに入ってみると。」ノート

組写真集「そこに入ってみると。」の思考を記録したノートです。

#1 序文「そこに入ってみると。」

風景写真の現在 

 

 「そこに入ってみると。」は、建築を学ぶ素人カメラマンが風景写真の新しいリアリティを考えるために構成した組写真の記録である。今回は写真史に触れながら、この取り組みの背景を明らかにしたい。

 

 写真発明から今日までの180年間、風景写真は最も大きく扱われてきたテーマの一つであり、様々な方法で風景が捉えられてきた。

 19世紀末のピクトリアリズムでは絵画のような風景写真が、20世紀初頭のモダニズムではアルフレッド・スティーグリッツらによってストレートな風景写真が生み出された。ピクトリアリズムとモダニズムの表現は異なるものの、これらは共通して、何か絶対的な存在、あるいは歴史が生み出した風景というものを前提とし、それをある種のモニュメント的なものとして捉えることを目指した。

 これに問題提起をしたのが、1970年代のニュートポグラフィクスのロバート・アダムスやルイス・ボルツである。彼らはモダニズムがリアルな世界と見なして撮影してきたストレートな風景写真に、もはやリアリティが見出せないことを指摘し、現実の光景を淡々と見つめ直すような風景を撮影していった。

 最も有力な現代写真家の一人、ヴォルフガング・ティルマンスも同様の視点を持っている。彼の場合は、グローバル資本主義、テクノロジーで汚されてしまった世界、未知が存在しない世界でリサーチを行い、「ノイエ・ヴェルト(新しい世界)」と反語的に呼ぶことで、世界をもう一度眺め回していくことが可能かどうかを問いかけている。

 

 現在、カメラ機能付きのスマートフォンを持ち歩く私たちは日常的に風景を撮影することができる。インスタグラムに日々大量の風景写真がアップロードされているが、いわゆる“インスタ映え”をしているに風景写真は、ピクトリアリズムやモダニズムの風景写真が旨としたようなモニュメント的な眼差しが見られる。建築雑誌を眺めていても、同様の気持ちが湧いてくる。私たちは多くの写真に囲まれているが、リアリティのない写真、言い換えれば虚構のイメージ世界に支配されていると言えるかもしれない。

 私たちがどんな世界に生きているのか、あるいは私たちが生きている世界をどう捉えることができるのか、記録できるのか。莫大な風景写真に囲まれる現代において今一度、風景写真のリアリティを探してみたいのである。もしかすると、もはや風景写真にリアリティは失効しているのかもしれないし、あるいは不要なのかもしれないが、やってみないことには何も見えてこない。

 

 次回は方法論を投稿したいと思う。

 

参考文献

飯沢耕太郎監修『世界写真史』美術出版社、2004年

後藤繁雄港千尋、深川雅文編『現代写真アート原論』2019年